バーゼル遺跡  高地ゲルマニア属州Augusta Raurica

スイスの正式な国号は、”Confoederatio Helvetica (ラテン語:ヘルウェティア連邦)”である。

紀元前のローマ時代、今のスイスに位置する場所には、ヘルウェティィ族と呼ばれる部族が住んでいた。

これが由来となってヘルウェティアと呼ばれている。

Gaius Julius Caesar(カエサル)がガッリア(現フランス)属州総督のとき、この部族を相手に戦いを起こし、

恭順させた。以来、ヘルウェティィ族や彼らの住まう地域はローマの支配権が及ぶこととなる。

このような背景から、当時はラテン語がこの地で話され、そして現在ではラテン語の国号が使われていたり、その派生語であるフランス語やイタリア語が公用語となっている。

5スイスフラン硬貨 国号のConfoederatio Helvetica が刻まれている。

バーゼルもまた、ローマ帝国の支配下に置かれた地域である。当時はRauraciと呼ばれる少数部族が住んでいたようである。

カエサルの部下であったLucius Munatius Plancus によって植民地が形成された。

カエサルの死後、その後継者である Caesar Augustus (アウグストゥス, Augustの語源の人)によって属州の一部として整備され、高地ゲルマニア(Germania Superior)属州の一都市Augusta Raurica (アウグストゥスのラウリカ)として300年以上にわたって帝国の一都市として機能する。

その当時の遺跡は、今でも見ることができる。

バーゼル駅から国鉄で4駅先のところに”Kaiseraugust”駅(Caesar Augustus)があり、ここにAugusta Rauricaの中心地の遺跡が残っている。駅を降りると、そこはのどかな住宅街が広がっている。そして、その中に遺跡がポツポツとあり、古代と現代が共存している。

この地は、ライン川に面しており、ローマ帝国の国境となったため、北方のゲルマニア系の部族に対しての防衛の拠点となっており、要塞が築かれていた。

図 要塞の跡地とその復元図

丘を登ったところに、 Augusta Rauricaの中心地の遺跡があった。

ローマによって植民地化された場所にはForum と呼ばれる広場が整備され、そこには神殿、裁判所、議会、劇場などの

生活に関わるものが集約されており、このRauricaの地も例外ではない。本国ローマの都市計画を模倣された町があった。

Augusta Raurica復元図

上図のようにそこそこ壮大な街であったそうだが、今は僅かにその遺構が残る程度。正直、他の都市の遺跡群と比べるとその規模は小さい。最近、自治体がその遺構を復元して町おこしをしようとしているらしい。

図 復元中の神殿 ROMAE ET AVGVSTO CAESARI DIVI F(FILIVS) “ローマ女神に、そして神君カエサルの息子アウグストゥスに(この神殿を捧げる)”

図 劇場跡 座席や舞台が再建されているので、今でもコンサートに使っているのだろう

遺構の中で最もよく残っていたのがCuria(クリア)である。これは、今でいう議事堂に相当する建築物である。

首都ローマの国会にあたる元老院に倣って、この都市にも小さな元老院が設けられている。

都市の有力者、主に富裕層から選出された人々が合議・多数決によってある程度の自治が認められている。

この議会の長を二人選ぶ選挙が毎年あって、

一定の財産資格とローマ市民権があれば立候補できる。そして、当選すれば後世に残る名誉なこととされるので、

名誉をこよなく大事にするローマ人にとってのモチベーションとなっており、都市の活性化を促している。

ローマ元老院のCuriaを除いて、このような議事堂はあまり遺っていないので、目にすることができて嬉しかった。

図 Curiaの遺構と復元図

この遺跡の近くに当時の碑文が飾られていた。

この都市の創設者Lucius Munatius Plancusに関する碑文である。碑文には、

彼の葬式はナポリ近郊の都市で行われ、その地で眠っているということが書かれている。

また、カエサルの友人であること、フランスのリヨンとこの地に町を創設したことが刻まれている。

わざわざナポリから遠く離れたこの地に、碑文が立てられるほどに大きな影響力を持っていたことが伺える。

この時代は血生臭い権力闘争が繰り広げられた「内乱の1世紀」の真っ只中であり、多くの

エリート層の命が粛清や戦死によって失われた。このような時代にあって、どうやらベッドの上で

最期を遂げたのは、幸運だったに違いない。しかも都市の建造という大きな仕事をやり遂げ、このことが死後2000年経った今でも誰かの記憶に残っていることは、ローマ人の本懐を成し遂げた理想の人生であったと思う。

次回は学会編である。

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